2012年3月26日掲載
第4回
自宅軟禁中のスー・チーさんには思ったより容易に会うことができました。
在日の関係者がビルマと連絡を取って設定してくれるのです。
民衆を前にブルーの門越しに演説している姿がしばしば放映されます。門の内側からヤンゴン大学通り(巾30mぐらい)に向けて訴えるのです。ある時会談のすぐ後にその演説をするので、聴いていったらどうですか、と尋ねられました。
彼女は高く組み立てられた台の上から左右を4、5人のNLDの党員に守られるようにしてマイクで話しかけるのです。ビルマ語ですから、私にはわかりません。
初めはゆっくりと、だんだん早口で声も大きくなり手振りもあるようになります。
応接室での話し合いの時は、おだやかで私の話をゆっくりと聴いて、口数少なく会話をします。
演説では一変します。好んで髪に挿す黄色の花が揺れるほどの熱弁です。
毎回20分ほどで終わるようです。
―熱心な聴取者たち―
彼女の演説中に塀の内側から大通りを覗いますと、通りをはさんで黒山の人だかりの文字通りの人、人、人です。静かに聴いて終わると潮の引くようにすぐにいなくなります。通り沿いに千人ぐらいはいるのではないでしょうか。
ビルマ国内でもスー・チーさんを批判する人々もいますが、民衆たちの多くは支援者のようです。軍人や軍に関係する人々は当然批判派です。賛同者の多くは、貧困に不満を持っていました。いまから20年前ですが、一日50円の収入があればよいほうだということでした。早朝の散歩に5時頃出ますと、無蓋車のトラックに鈴なりの人々がヤンゴンの街にどんどん入ってきます。日本の建設会社が、ホテルを建てていて、そろそろ日本資本もビルマに定着しようとしていた時期です。軍事政権を反省させるために日本のODAを止めて欲しい、というスー・チーさんの叫びも欧米はともかく日本には届きませんでした。
彼女は先進国からの経済封鎖を求めていたのでしょう。私は帰国して彼女の声を正しく在日のビルマ人に伝えようと努力しました。
彼女は自宅に軟禁されていても決して挫けてはいなかったのです。
2012年3月24日 記