2012年3月19日掲載

第2回

―そもそものなれそめ―

 ビルマ、スー・チーさんと私が縁づいたのは、今から40年前になります。

 第2次世界大戦でビルマへ軍医で参戦していた方が私の知りあいにいました。帰国してからもビルマを理解しようと努力する穏やかなお医者さまでした。その方の知りあいで品川区のビルマ人がいて、2人の子どもを保育園に入れないと夫婦共働きができなくなるということで私のところに来ました。当時、北区議の私には品川区の役所に口ぞえもできずに困ったのですが、当時まだ専任制だった区長を公選にしようとする自治権獲得運動が23区で盛りあがっていて私は北区の委員長をしていました。そこで知りあった品川区の委員長に話をして無事2人は入園できたのです。それから医者、ビルマ人、私の関係ができました。医者もビルマ人もスー・チーさんの目指す民主化を支援していましたので、私も勉強してビルマと日本の関係、軍事政権とスー・チーさんのお父さんのアウン・サン将軍とビルマ国民や日本との関係を知ったのです。


―ビルマ人との信じあう関係―

 それから在日のビルマ民主化運動の応援をするようになり、何人ものビルマ人の身元保証人になってきました。仏教国で謙虚な人が多く、一回も迷惑をかけられたこともなく信頼の絆があります。北区の飛鳥山を公園課から借りてビルマの伝統ある「水かけ祭り」をしたりして何千人もの日本人、ビルマ人が音楽を聞いたり、ビルマ料理を食べたり、会話するのです。首都圏のビルマ人が集い、国際友好にまで発展してきました。個人的に仲人をすることなどもありました。

 在日の人々の中には、90年の総選挙での民主化勢力の80%を越す議席獲得を無視して、軍政を続ける政府に対抗して国外逃亡しているかつての学生が多いのです。

 難民認定に関して日本が厳しく、そのためアメリカへ渡り、市民権を得る人が圧倒的ということも知ったのです。

2012年3月17日 記