2023年10月17日掲載

剣道と44年の付き合い

【23】剣道の本を読む

 私は俳句をやっている。句歴は13年ほどである。初めは演説の材料とか、話のアクセントに混ぜたりした。ほとんど独習である。最近は同人になった。だが先生はほとんど本である。句は座の文学と言って、同人と集まって句を謡いあって、批判したり賛同したりするもののようだ。だが、あまり同人同志が近づきすぎると、緊張を欠いた集いとなる。俳句の本を50冊は持っていて、読んだ。その結果であろう、東京新聞の俳句の年間賞をいただいたことがある。いまでも雑誌に投稿して景品をもらうこともある。

 感性の俳句と体を使う剣道を同時には考えられないという人もいるだろう。だが、全国審査の6段以上の人で剣道に関係する本を読まない人はいないであろう。先人の考え、工夫や努力を活字にした本。これ以上の知識はない。何年間も続いた苦労の足跡は必ずためになる。以前、この記事で私は考える剣道をすすめていると書いたが、まったくそのとおりである。

—筑波大学の場合—

 私が7段を落ち続けていた時に、「考える暇があったら、打てばいいんだ」という乱暴な指導をする先輩がいた。その人はそのような指導を受けたのだろう。だが、わたしは筑波大学の剣道を支持して大いに参考にしてきた。理屈で考える剣道である。私の剣道観と合っていた。

 筑波大学の剣道は、香田範士、有田准教授の指導をうけた形中心の剣道である。東京高等師範の初代校長の加納治五郎が剣道教師に高野佐三郎を要請して、日本の剣道の殿堂とした。今日までその伝統は続いている。そこでは考える、理合いの剣道を学ぶ。当然、本も読む。理合いを考えて理解した剣道とただ竹刀を振って、汗を書く剣道では到達するところが異なると思う。

 私は今自分の稽古会で、教育剣道を実践している。運動力学、心理学、骨格などの生理学などを稽古の合間に伝えて、理解してもらう。「正しい剣道は美しい、美しい剣道は強い」という理念である。考える剣道の基本は本である。教授する人も大事である。その人がいない時、自分で考え実践するしかない。その時、本は人と同様に大切な指導者となる。宮本武蔵が『五輪書』、高野佐三郎が『剣道』を書き、いまでも指導者が本で示された教えを参考にしながら指導する理由は、本に書かれている事例、理念を尊しとしているからである。汗をかいてそこから自得せよ、という突き放した考えは彼らにはない。事理一致とは、稽古で汗を書くことと同時に、本で理合いを知ることの融合を言っていると解釈すべきである。

2023年9月 記