2013年7月13日掲載

ネット選挙への疑問(4)

—抑制、禁欲、我慢—

 死語があります。いまは使われない言葉です。死語を誰が作るかといえば、人間です。汽車に乗っていて後ろに消え去る電柱のようなものです。忘れていくのです。

 目の前に次々と現れることに興味を持ち、目で追って時には駅に降りて近づいて確かめることもなく、成りゆきにまかせています。これが近代化の原型です。

 近代化は人間開放といわれます。それまでの宗教、政治(支配)からの開放です。

 しかし身にまといついたものすべてを解き放つことではないのです。

 しかし、自分に都合のよいことだけを取り出して、時代は変わった今はこういう時代だと時の人気者が叫べばそのようになるのです。解決と放縦は違います。このことに気がつかないのが大衆です。ようするに庶民です。抑制のない群衆です。日露戦争に勝ったことによる戦争停止に不満を持って続行を強調した新聞と群衆です。抑制とはそのことによって、どのような結末になるかを予想する力があってはじめて働くものです。

 私が輿論と世論を峻別するのはこのような背景があるからです。

 さて世論と放縦は親戚ですから、長時間かけて煮詰められたものではありません。まったく無責任、一時的なものです。そこには禁欲などはなく、まったく逆のむき出しの欲求、主張しかありません。議論はなく差違をつきつけて罵倒することがすべてです。

 いま行われているヘイト・スピーチなるものを思い出してください。

 他者に対しても自分に対しても我慢はありません。すべて表現し吐き出すことで満足できるのです。それをしないと欲求不満になります。誤った環境に入っているのです。

 これから脱する方法は一つです。

 自己管理です。そしてそれを具体的にテレビを計画的につけること、惰性に流されてつけっ放しにしないことです。すなわち放縦ではなくすることです。あわせて我慢することになるのです。

 それはネットから一日のうち、一週間のうち何時間、何日か断絶することです。麻薬を断ち切るようにです。このようにいくら説いても自覚しなければまた昨日、今日の連続の中に埋没してゆきます。そして群衆となって広海を漂流します。

 このようなことは何十人、何百人がすでにいっていますし、多くの人は気がついています。しかし、やれないのです。できないのです。このように自覚できない学者はいうでしょう。しかし、人が好くて頑固ではないということです。

 よい意味でネット社会を批判することは頑固主義に徹することでもあります。

2013年7月12日 記