わだむねのピリリ一言

修業論(連載2/3)

―『九品』(世阿弥)の修業論―

 前回に指摘したポイントは継続して1万時間に打ち込める人が一流になれるということでした。さらに現在も続けている、ということでした。
 今回はわが国の芸術の粋ともいわれる能の理論的確立者、世阿弥の修業論について考えてみます。
 よく知られる花伝書(風姿花伝)にみられますように世阿弥は芸術論、技術論を多く残しています。
 そのなかに『九品』があります。
 世阿弥は修業の段階を九つに分けています。まず上三花、中三位、下三位とします。さらにそれぞれを三区分します。

上三花 妙花風 中三位 正花風 下三位 強細風
寵深花風 広精風 強麁風
閑花風 浅文風 麁鉛風

 世阿弥は九区分した中三位の浅文風から習い始めなさい、といいます。さらに上三花にすすみ、最後に下三位を仕上げなさい。と続けます。しかし下三位に戻れて仕上げたのは父の観阿弥ぐらいのものであろう といっています。面白いのは下三位から学びはじめるのではなく中三位からを勧めていることです。
 初心者がまず中級の4番目浅文風から始めることを自信をもって勧める理由は何か、ということです。

―なぜ中三位なのか―

 世阿弥は5番目の広精風が上達の分岐点と指摘しています。
 では下三位の9番目の麁鉛風、8番目強麁風を何と位付けしているかといえば麁は荒々しいこと、鉛はにぶいことで、ただ荒々しく配慮のない段階で技がすばやく発動しません。強麁風は激しく粗雑であることで、虎は生まれて三日もすると牛を食う気がでてくるような様子です。
 この下三位を修業せずに一足飛びに浅文風から始めることを善としています。浅文風は能でいうところの舞と謡(二曲)を学び老体、女体、軍体(三体)を習熟しなさいといいます。二曲、三体は修業対象の周辺情報、基本を身につけなさいと解釈して、水の浅いところすなわち自然でなにげないところから学びはじめるよこがよい、と言っています。
 私の理解はつぎのとおりです。
 なぜ下三位から入ることをすすめないかといえば、激しく荒々しい段階は脱出しにくい世界でそこにとどまる時間が長くここで止まってしまう場合も多いからです。
 初心者が激しく荒々しいことは当然として自分が甘えることも邪魔になるからかもしれません。
 それよりも自然と無意識に溶けこめるところにまで基本を知識として、まず理解して修業に入りなさいと解釈します。
 耳学問、書物など通じて全体像をつかんでから行動に至るというところでしょう。
 修業に入るのは自然に無理なく行動できる心鏡になってからでもよいという余裕もかんじとれます。

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