2018年8月17日掲載

終戦の日に終戦を考える

—来年の新天皇誕生にむけて—

 まず終戦か敗戦かという議論がある。戦争に導かれ被害をこうむった国民は、戦争を遂行した政府、軍部を糾弾する。そして素直に敗戦といいたがる。私の身の回りにもそれに拘っている人人がいる。

 昭和20年(1945)5月には、9月の終戦を目論んでいた政府幹部もいた事実があった。7月26日にポツダム宣言が米・英・中の3カ国から出されたのを躊躇して時を過ごし、8月14日の受諾になる。これには政府が軍部の敗戦を主張し、国家とは切り離す意向があったためである。

 しかし海外ではしばらく戦闘が続き、多くの人命、財産の喪失があった。

—国内儀式から国際儀式へ—

 昭和、平成と二代の天皇は、旧大日本帝国憲法のもとで、8月15日の玉音放送に基づき政府主催の全国戦没者追悼式で式辞を述べてきた。主催者の総理大臣の後に天皇式辞である。

 政治との関わりを断つべきと考える私は、純粋な祈り、文化行事として別の式典を天皇に用意するべきであると考える。そして終戦の日は連合国の降伏文書に調印した9月2日にするべきである。

 諸外国の多くはこの日を終戦の日としているからである。諸外国の受けとめ方と歩調を合わせること、すなわち国際的な儀式とすることで新天皇の出発にしたらどうだろうか。敗戦を認めたくない、という感情から終戦といいたい気持ちはわかる。しかし海外諸国が戦勝記念日としたら相手国の日は敗戦国ではないのか。

 眼前の歴史の事実から目をそらさずに、新しい時代へ目を向け、昭和、平成の両天皇の御努力に報いるためにも新天皇の決断を求めたい。

2018年8月15日 記