2018年10月24日掲載

流行り廃りではなく

—自分の考えで生きる—

 私の家はネクタイ縫製業であった。半年近く前に春もの、秋ものなどという新しい流行デザインを加工して納入していた。ファッション業界の渦中にいたわけだ。車、家、家具、衣料品、化粧品など、その新製品、新提案がなければ売れない。売れなければ商売にならず従業員に給料も払えず、家計も滞ることになり、国の経済も同様となる。

 いわば使って捨ててくれなければ富は生まれず、私たちの生活水準は上がらないということだ。

—お手洗いからの発想—

 新しく目の前にある品物は生生しくきれいだ。しかし使ううちに傷がつき、手垢がつき、飽きてくる。そして部屋の隅で埃を被る。私は埃をかぶったところから、時間を逆回転する発想、すなわち終末から誕生の方へ視点をずらしてくることをよくする。

 料理でも食材を準備して作り、食べた後に不用の食材、食べ残しを廃棄する。清掃車が決められた日に収集して焼却する。そして残滓を東京都の埋め立てに使う。

 こう視てくるとその過程に無駄や不合理がないかと、思う。この終末からの発想で点検していくと、埋立地はいつ一杯になるのか、焼却炉からの煙に健康被害の害毒は入っていないのか、下水処理場から東京湾に注ぐ処理水は基準値を守っているかなどの疑問が出てくる。そして出発点の私たちの生活に過剰な消費、贅沢な消費がないかと考える。

—流行りに取り込まれない自分—

 世間は作り、捨てる経済で動いている。しかし自分が選択できる自由がある。誰も強要しない。とすれば母、父の身につけた衣料品、使っていた鍋、靴でも生かせばよい。他人の目を気にしなければ、すなわち自分が納得すればよいのだ。

 周囲を気にしない自分があれば、身軽に生きられる。有名ブランドの鞄、靴など持っていなくても不自由はしない。

—なんでも自分から出発する—

 いまプラスチックごみを政府は有料化しようとしている。死んだ鯨の腹から、大量のプラスチックごみが出て、海洋汚染が国際問題となったからだ。自動販売機で手軽に買える飲料水、スーパーのレジ袋がやり玉に挙げられる。政府にいわれるまでもなく、水を持ち歩き、買い物袋を持っていればよいだけだ。

 便利=コンビニエンスとは無責任ということではないはずだ。時流に乗って流行り廃りに翻弄されるのではなく、自由の生き方とどう関わるのかと立ち止まりたい。

 自分の顔、姿には自分で責任を持つという生き方である。

2018年10月14日 記