2018年1月9日掲載

【新年に思う】らしさのない社会でよいのか?

—型を取り戻したい—

 若い時、先人・先輩のやり口に不満を持つものです。

 それは自分が未熟で不勉強のせいでもあります。努力をする時間がない、理解するきっかけがないなどの理由があります。

 また社会を斜めに見て、批判することが新しい時代の特権、若い人の象徴のよう煽る世間もあります。

 だれも定めたわけではありませんが、教師らしい教師、親らしい親、上司らしい上司などの像がありました。

 それは信頼につながっていました。たとえば警察官。この職業は正義と愛情に基づいていなければなりません。先生も教育者として物事の真理に謙虚に向き合い指導する立場です。

 公務員、政治家もその役割があります。当然、型もついてきます。子どもにも、青年、学生、労働者、高齢者にもあります。

 なにか型にはまることを良しとしない風潮がありはしないだろうか。

 ——らしくない生き方が良いと誤解している人が多い。それは型にはまること、枠にとらわれることを窮屈と思い込んでいる人だ。

 そもそも私たちは制約、型のなかで生かされている。まず宇宙、地球だ。この型を超越できない。

 そして時間だ。誰もが一日、時間のなかで生き、誰もが死という型、枠に納まっていく。

 まったく型、枠、制約のなかで生きている。

 問題なのは不条理、権力的な制約に基づく型、枠だ。これを打破していくことが、人間の型、枠、制約のなかでの立派な生き方なのだ。死に向かって生きるという現実。それと同じく型、枠にとらわれて自由を求めて堂堂と生きる。こんな社会、国家が求められている。型、枠にとらわれないという一見自由のもつ無政府的な発想がいまの日本には日常化していると思う。せめて自分のなかに型、枠を設ける自律性を認めていきたい。

2018年1月5日 記