2012年8月25日掲載 虚しいおしゃべり社会(1|3)―プロの話芸は死んだ― いまから40年以上も前の話です。『マクルーハンの理論』という本が大前正臣の翻訳で出ました。メディアはホットとクールである、というような区分でテレビを中心にした未来社会を予測してみせました。 当時、学校にいた私はしばらく愛読したものです。その後、竹村健一などもこれをしきりに讃え、援用するようになり、一時代賑やかだったときもありました。 さらに『劇場社会』などという矢野暢などの見方も出て、知ること、知らせることの過多ともいえる現在につながっています。
いまでも「笑点」という大喜利番組があります。寄席で売れない若手噺家が出てとんちのようなお遊び番組です。テレビ進出をする工夫だったのです。立川談志なども出ていました。 かつては楽しい時間でしたが、いまはとんとご無沙汰です。いろいろ理由があります。 まず品が落ちました。それは言葉が汚いことでした。正しい江戸ことば、東京ことばがありません。日頃の落語の稽古の片鱗を出すところに個性も深みも出ます。 いまは大声で出演者同士がののしりあったり、言い負かしたりする場面がよく見られました。落語はもともと人に笑われる芸です。御機嫌をうかがって、笑われて観客に心地よさ、優越感をさしだし、お粗末さまでしたで下がってくればよいのです。そういうものでした。 いまは違います。テレビで知名度を上げてちやほやされて、お金も入り、控え目な姿はありません。
ですから故志ん朝などの持っていた人間味や粋がなくなり、大声でわめき、いたずらに感嘆詞を使う時間かせぎの芸人がすべてです。 故安藤鶴夫のように芸人をかわいがり、叱りつけた評論家はいなくなりました。 観る基準がなくなったのです。大学の落研からくる芸人が多くなり、政界の松下政経塾と同じで上辺だけの芸でペラペラ、スルスル話をしても噺ではなく、芸ではなく、おしゃべりです。私たちも厳しい目で見なければ、芸人は育ちません。たとえば笑点に出ている円楽などは先代の芸は継いでいないと私は思う。 人間性が少しもうかがえないからです。 まとめ役の桂歌丸への態度も不遜で芸の上とは思えない。マクルーハンのいうホットだけが目立つ番組となって談志の時の皮肉、諧謔、批判などの高級な話芸はとても期待できません。 いまメディアは多弁、駄弁で中身のない風船のようなものです。 お金のかからないおしゃべりでさえも、本物がなくなり、大声と口数と感嘆詞の似非物世界になりました。次回から本物を探してみましょう。 8月23日 記 |