わだむねのピリリ一言

2012年5月14日掲載

ウェーバーさん、ほんとうに政治は結果責任ですか【3|3】

 ウェーバーについて前後しますが、触れておきます。私の大学の講義は権力論です。メリアムの研究が私の仕事ですから、『政治権力』中心になります。その時にもかならずウェーバーの「職業としての政治」を引き合いにします。ウェーバーは政治組織の最高のものを国としています。さらに国は正当な法律で保障された暴力行使によって保たれた支配を独占できる組織としています。

 よく政治家が用いる単語で、『暴力装置』という源はウェーバーの「職業としての政治」なのです。読んでいたかどうかは別としてウェーバーを知っているという宣伝にはなっています。

―心情倫理と責任倫理―

 政治家が責任追及の場面で使う『結果責任』の出典ですが、正しくはウェーバーは「心情倫理」と「責任倫理」として使っています。

 「心情倫理」とは、「キリスト教の信者は正しいと思うことを行い、結果は神にまかせる」といい、「責任倫理」とは「人がすべての責任を負う」として神の介在を許さないのです。

 時代背景の帝政ドイツの国家形態があり、その批判としての「責任倫理」でしたから、議会の無力を批判したものです。

 議会はまったく無力で行政の思うままでした。それを打破するための政治への要求が結果まで責任を負うということです。

 しかし、今日はいい意味で行政国家の時代です。

―やはりウェーバーさんは古い―

 私から申し上げるとウェーバーさんは古いのです。政治を叱りつけ政治家の責任を問うことは当然です。政治を発憤させるために、結果に責任をもてばよいと言い換えられて、政治の過程が軽く見られている風潮の責任こそ、ウェーバーにあるのです。

 私は時に甲子園の高校野球のように結果だけでなく、努力の過程にこそ政治の教育的な要求があると考えます。

 その過程を公表することで政治を取り巻く住民も政治家も行政(家)もそれぞれが相互に批判し納得することができるのです。

 政治は結果(責任)というウェーバーの表現が一人歩きして、結果を出せばすべて免罪されると曲解しているのが日本中です。

 結果よければすべてよし、は政治には当てはまりません。過程も大事ということなくして結果を求めることは危険ですらあります。

 なぜなら結果が出た時には政治はウェーバーのいう暴力装置で批判やためらいを許さないことも可能だからです。ウェーバーさんやはり政治は結果だけでなく過程も大切です。あなたの講演した時代は遠い昔です。

5月12日 記

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