わだむねのピリリ一言

2012年5月10日掲載

ウェーバーさん、ほんとうに政治は結果責任ですか【2|3】

 政治とスポーツはたとえられません。しかし“闘う”“競いあう”というところでは一緒です。

 もっと広い意味でいいますと、始めと終わりがあるということで一致します。

 高校野球は同じスポーツでもプロとは違います。高校生の持つあらゆる要素すべてが収れんしています。若さ、未熟な力、一直線の動きなどがあります。

 しかし、甲子園に出てくるまでの練習などが大切であって勝つことがすべてではありません。敗れた学校を慰めるための言葉ではなく、学生を落ち込ませないためのいいまわしではなく、過程が大切だということです。

 結果だけがすべてといえば最後の一校のみが勝者としてたたえられるのです。

 それを観ている客も敗れ方、勝ち方を楽しむことで、高校野球の完璧な強さはなくいつかどこかで敗者の憂き目を見ることを心配する心が育ってくるのです。

 

 政治は結果責任を持てといいます。言い換えますと結果がよければその過程はどうでもよい、ということです。つきつめていきますとどんな手段(すなわち過程)を使っても、目的(すなわち結果)を出せということです。

 いろいろな世界を構成している人間社会では誰もがよい結果を求めて頑張っています。そして、必ず結果は出ます。

 それもすべて自分の願っているものばかりとは限りません。

 それでもまた続けていきます。試みます。それの連続です。

―結果責任のわかりにくさ―

 政治の世界だけが結果責任を声高く唱えるのは不思議です。

 また結果責任は、職を辞める、退くことを意味しますが、辞めて改善するのならともかく、何がなんでも辞めろと迫ります。

 失敗者を目の前から外すことで気晴らしをし、当事者を罰するようにも思えます。

 終わりよければすべてよしです。

 この考えには教育が介入する隙間はありません。結果を出せ、結果を出せと迫るだけでは人は育っていきません。結果を出すために手段を選ばなくなるからです。

―過程も大事―

 私たちが考え、行動する時は動機、きっかけが必ずあります。

 それを結果に結びつけるために予想し、工夫し、努力していくのです。

 そこには教育が機能しています。

 こと政治について語るとき出てくる結果責任は政治だけは別な世界をつくっているかのような“りきみ”を感じます。

 政治は公職です。したがって責任はつねに追及されます。私が言いたいことは、結果、結果という前に、過程、過程と同じ比重でその大切さを測るということです。

 なぜその結果になったのか、理由を問うときに、国民の関わり、国民の責任もそこに出てくるからです。選挙の投票の時の関わりであとは、テレビで政治劇を観ているだけでは結果責任をいうだけです。

 日頃から政治と自分の関係を近づける努力をしているのか、ということも大切です。

 政治の過程に意見を出していくことで、結果をすべてとしようとする政治に批判が加えられるのです。

5月10日 記

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