わだむねのピリリ一言

2012年5月5日掲載

あっしにゃあ 関わりのねぇことでござんす
〜木枯紋次郎〜【4・終】

 世の中に何個の携帯電話があるのか、コンピュータがあるか知りません。しかし、世の中の進歩、この定義も難しいのですが、これとともに人間は力を使わず、足を運ばず目的が達せられるようになってきました。例を挙げるまでもありません。私もそう思います。しかし、携帯電話やコンピュータができたことによって、健全で明るい社会になってきたでしょうか。

 もとより線のない電話の利点もあります。山奥の工事現場などでは大喜びでしょう。また複雑な計算などにコンピュータは短時間で役立っていることでしょう。すべてに悪いことも、よいこともありません。しかし、携帯電話、コンピュータを知らなかったり、持てなかったら人間らしい生活生き方ができたかもしれない。またその逆もありましょう。

 私はその双方を冷静に見る姿勢が必要だというのです。携帯、コンピュータに詳しい人が偉く、苦手な人は遅れているような、社会が相手にしないような片寄った考えを批判しているのです。

 もとより携帯、コンピュータを便利すぎるという復古主義もとりません。

―人それぞれを認める―

 メルボルンに行ったことがあります。空港では11月なのに半袖の人、オーバーコートの人、さまざまな人にめぐりあいます。

 日本とは逆の四季であることは承知していても集う人はまったく統一感がありません。なれればそれもそんなものなのです。それぞれの目的地に半袖、オーバーコート姿で散っていきます。携帯、コンピュータを時代変化の象徴として見ますと、これを自分にどう生かすか、無視するかはたとえ親でも子供でも自由なのです。書家の石川九楊さんは手で書くことがなくなったこと、コンピュータ文字の表現が日本人の感性までなくしていることを警告しています。私は大学の板書を必ずしますし、エッセイも手書きでないと受け取りません。毎週の感想を書いてもらうのも私は手書きです。授業が終わると生徒が来て手書きのよさ、パソコンの便利さの恐さを言います。便利さに流されないことは自分でできる努力なのです。

―孤立をおそれず―

 世の中は大きな便利さの大河となってコンピュータ、携帯の天下です。

 電車のホームで「ホームの真ん中、自販機のそば…」などと電話しながら人探しをする愚かさに気がつかないのでしょうか。事前に約束の時間、場所を決めておけば、そんなことをする必要はありません。

 狎れは怖いものです。こんな行為の積み重ねが現代の世相なのです。おかしい、無駄と考えたら、このような風潮に流されずに自分を貫くことです。

 この個性こそが大事です。分別のつき始めた大学の新入生、新入社員の飲み会で、花見で、救急車を呼んだり、死んだりするのもその場の流れに溺れたせいなのです。大切な生命まで軽々しく扱う世相なのです。迎合せず、責任は自分が取るという納得した孤立をする勇気を養う時です。

 ハンナ・アーレントのいう労働と仕事なども考える動機になると思います。アーレントについてはまた別の時に…。

 すべての世の中の事象に自分が関わっていること、そして、自分の個性をどう発揮するか、ということを日々の仕事や働きの中で考えることです。人の人生を生きることはできません。自分は自分の人生をしっかり生ききることです。

5月4日 記

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