わだむねのピリリ一言

3月15日掲載

あっしにゃあ 関わりのねぇことでござんす
〜木枯紋次郎〜【1】

―寂しくて哀しい現代人―

 この台詞を御存知の方は、50歳代以上の人々でしょう。4、50年程前にテレビドラマを一時風靡した時代劇の主人公が他人との触れあいを避けて旅に出るときの台詞です。

「あっしにゃあ 関係のねぇこと でござんす」(笹沢佐保)

 人知れず餓死、病死する人々が、世界に誇る、世界から憧れられる東京で日日おこっているような実情をどう考えたらよいのでしょうか。IT最新技術の生かされた製品を駆使し、食べたい放題の食事を取り、有名ブランドを身につけて家には片づけられないほどの品物をもっている都民。

 それと同じ都民で餓死してもだれも知らずに放置される都民。

 自分の親が死んでも葬式も出さず、あまつさえその年金を数十年にわたって詐取している子供がいました。

 その後、全国で生きていれば百歳以上の人々が多くでて精査に行政の不始末もありました。

 これは家族を家族と思えない人間の仕業です。また行政の住民への無関心が呼び起こした結果です。

 少なくとも知ろうとすれば知ることができたわけです。

―東京は周りを気にしなくても済む社会―

 かつて東京へ出たがった人の一部には、故郷にいるのは長男、次男や女性は家を出て職場のある都市や東京などで働くことが普通でした。東京に行けばなんとかなる、そんな歌や劇が流行ったものです。

 地方にあるしきたり、風習、人間関係から自由になれるという風潮です。

 都会へ都会へ、東京へ東京へと人は集まり富を生み出し、町をつくっていきました。都市化の時代です。

 人が大勢集まって顔の知らない、名前も知らない人とすれ違っても挨拶をしなくても済む社会は自由で自分の思う通り生活できます。

 その自由の裏側に他人社会があります。

 家を一歩出れば顔なじみの年長者、同級生などに取り囲まれて自分のことはすべて知られる環境を鬱陶しいと考えるか、人間味のある触れあいと受け取るかで人の生き方は変わります。

―世間なくして人生なし―

 私は「渡る世間に鬼はなし」という諺言が好きです。

 鬱陶しいのも世間。温かいのも世間。最後は人とつながって生きていかなければ、だれ一人例外はないのです。助けたり、助けられたり。頼ったり、頼られたり。乳幼児から寝たきりの老人まで、隣人から海外の家族まで時空を越えてつながって生きているのが人間です。それをあたかも個人で生ききれるように錯覚してまたさせて、思いあがった個人や社会が心を惑わすのです。

 世間すなわち小さな人間集団が融けて消えていくことを奨励するように現代合理主義といってもよろしい、プラグマティズムといっていい思想が今日の社会事情の帰休となっているのです。便利さがその代表選手です。24時間365日開いていてなんでも揃う、コンビニエンスストア(コンビニエンスとは英語で便利ということ)です。便利で あっても人間の一日の生活上の計画を軽視して思いつきで品物が手に入るような日常生活を提供しています。時間で店が閉まれば、「しまった」と思い自分の無計画、忘れたという反省があり次からは同じ誤りをしなくなります。その便利さはエネルギーの無駄もたれ流します。しいては店売りの人々から仕事を奪い、客と店員の日常会話や触れあいを奪い無言社会へと誘ってきたのです。ここでも人に干渉されない自由があると思う人がいるのです。

 当然のこととして隣りの部屋で一ヵ月前に亡くなっていても「あっしにゃあ関係のねぇことでござんす」といって通り過ごし、聞き流す人々がいるのです。

 その一人が私たちである、ということです。

 そこでどうしますか、あなたは。そして、私はどうするのか。重要な問いかけです。

3月12日 記

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