2015年11月29日掲載

光派私説6

学芸員 和田宗春

 いまの市民と光悦の時代の町衆とはどう違うのか。

 これを記します。一般的に市民といえば資本主義的生産手段の普及によって、絶対主義的な政治体制を崩壊させて実現してきています。このような社会では、市民が、政治、経済体制の支配者となります。これには血の争いが付き物の革命がともないます。

 しかし京都の町衆は市民と異なり、市民の革命はありません。応仁の乱、南北朝時代の支配階級である上層の混乱、静止と関わりなく、自らを生かしめていく下層である町衆の誕生、成長による二層社会が育んだものといえます。

 京都の歴史に出てくる「京戸」は、中国の隋、唐の律令制度を受けたものです。

 律は刑法、令は行政法、訴訟法を意味していますから初歩の法律国家といえます。

 平安京の「京戸」は左京、右京に地域編成された家家をいいます。いまの住民票は個人名が載っていますが、当時は家だけでした。これが701年の大宝律令で、10世紀まで続きます。そのうちに「京童(きょうわらべ)」が誕生します。労働だけでなく、猿楽など芸能を楽しむ余裕のある人人です。当初は読み書きができ、戯れ言や批判、皮肉を楽しむ没落貴族などが中心となっていたと思われます。かつて宮廷文化の周辺にいて、武力による権力闘争に明け暮れる武士社会よりも、精神活動に価値を置く経済的に貧しい人人です。

 京童が町衆へと発展していきます。町衆は平安京の隆盛から応仁の乱、徳川時代の初期までの被治者群として、その時時の政治力で動かされ、それに従いながら生き長らえて、権力との付き合い方、動かし方を時には面従腹背しながら身につけていったのです。

 次回は町衆の動きを記します。

2015年11月26日 記