第1章 正岡子規の四百年後の東京
偶然にも正岡子規と幸田露伴は同年の明治32年(1899)に、東京または首都についての評論あるいは意見を公にしている。子規のそれが『四百年後の東京』(9)である。
子規の東京論を点検する前に、子規が小説家を断念することに露伴が関わっていたことに触れておきたい。
明治17年(1884)に東京大学予備門に入学した正岡子規は一時政治に意欲を持っていたが、坪内逍遥の『当世書生気質』を読み衝撃を受けて学生時代に取材し、同18年(1885)に『龍門』を書き、同23年(1890)に『銀世界』を回覧し、夏目漱石らの批評を受けている。同24年(1891)に、露伴の『風流佛』に感動し、小説『月の都』を執筆した。露伴を訪ねて批評を求めたが、露伴の「覇気強し」という感想に子規は落胆している。子規は俳友の高浜虚子への手紙に決断を書いている。
僕ハ小説家トナルヲ欲セズ
詩人トナランコトヲ欲ス
さらに俳友の河東碧梧桐にも弁解をしている。
人間よりは花鳥風月のほうが好きや
こうして正岡子規の歴史に残る俳句への傾斜、没頭が始まっていくのである。
1 子規にとっての故郷
後に触れる白秋の故郷への思慕と同じく、子規のそれを探ってみる。
明治28年(1895)10月6日の新聞「日本」(9)に「故郷」という題で子規の原稿が掲載されている。子規はまず「世に故郷ほど恋しいものはない」と切り出している。「学問のためとか富が得られる」という理由ではなく、「住みたいところ」である。「母親の乳房」をたとえに出し、「離れがたい」という。故郷が近づくと、まず「城の天守閣が見えるが、これが嬉しい」といい、風景をいとおしむ。さらに「身内を訪ねて、年老いたり痩せたり太ったりした婆婆様、おじ、おば、下女らが少しも変わらないことに気が安まる」、子規はこの後も近隣の人や風景の変化、墓所の周囲のたたずまいについて書いている。そして最後に次のような歌で締めくくっている。
嬉しきも故郷なり悲しきも故郷なり悲しきにつけても嬉しきは故郷なり
子規にとって故郷はかつての思い出の姿であり、少しずつ変わっていくのを面白く、変わらないと見えながら変わっていくことを聞いたり見たりして、ゆかしいといっているのである。
2 神田川と東京湾の四百年後
今でも正月の新聞各紙に初夢のような、未来の夢物語と言えるような空想記事が載るものである。新年という寿ぎのあらたまった縁起めいた書き方の記事をみることがある。
明治32年(1899)の新聞「日本」の元旦号に子規の『四百年後の東京』が掲載され、駿河台、御茶ノ水周辺の四百年後を描いている。同35年に没する3年まえ、32歳の時である。実はこの時、『四百年前の東京』と同時に掲載されている。『四百年前の東京』では四ツ谷、浅草、鎧渡、甲山、鎧の渡などを「武蔵野の平原八百里と称す。山がちなる日本の国に大きな都府を置かんとならばことならではあらじ。」として首都を置くならば、武蔵野の東京しかない、といっている。山地の多いわが国では関東平野のこの場所が適正である、と断定する。さらに続けて空想、未来といった年初めの初夢のような記事がある。太田道灌などの歴史から書き始めている。
『四百年後の東京』は神田川、東京湾を取り上げながら未来の姿を描写する。
「 圖中、三重に橋を架す。中なるは今の御茶ノ水橋の高さにあり、屋上最高の處に架したるは高架鐵道にして、最下にある者亦一般の通路なり。…」以下略(9)
神田川沿岸の建物は上層、下層を昇降機(エレベーター)を使用して移動している。
そこには旅館、割烹店、喫茶店、百貨店などの高級店が集まり、カラー写真館もある。
人間社会のすべての贅沢が集っている。400年を待たずに120年経って子規の予想通り、今の水道橋、神田川周辺は大変化している。子規の想像力には驚嘆する。
この神田川の項は次の歌で終わる。
「おちゃのみず うてなたかどのたましけど しなぬくすりをうるみせはなし」
このように栄えてみえても死を防ぐ薬は四百年後もないのだ。もちろん死が3年後に迫る子規自身にも結核の完治薬はない、といっているのだろう。
東京湾についても次のように記している。
「隅田河口は陸地を廣げて品川沖は殆ど埋め盡くさんとす。されど最新の式に憑りて第4回の改築を行ひたる東京湾は桟橋櫛の歯の如く並びて、林の如き帆檣安房上總の山隠したり。…」以下略(9)
港湾は海上の市街であり、すべての必需品は商船が商う、と言っている。この東京湾の項も次の歌で終わっている。
「よのなかに わろきいくさをあらせじと たたせるみかみ みればとうとし」
悪い戦争を否定する子規の平和主義が垣間見られる。
東京湾の有り様も、今日に当てはまっている。平成の現在に世界航路の客船や貨物船が息つく暇なく東京湾を利用している。確かに病床にあって絶大な想像力を駆使して、東京を思い描いたのであろう。
子規の感性の鋭さである。ところで子規は、明治25年(1892)12月に陸羯南の経営する日本新聞社に入社している。
明治28年(1895)4月には清国にも取材で上陸し、一ヶ月ほど滞在している。子規は政治家に関心を持っていたが、『病状譫語(びょうじょうせんご)』(10)にあるように、「政治家とならんか、文学者とならんか、われは文学者を択ばん」としている。視野を広くもっていて探究心の強い青年であり、すでに結核を患っていたが、中国にまで行って仕事をする意欲をもっていた。
3 松山と東京
故郷思いの子規は故郷と東京を比較している。
明治22年(1889)12月に松山出身者でつくる「松山会」が上野で開かれたことが同年の『筆まか勢』(11)にある。その会場で「余は予てよりこしらえ来たりし東京松山比較表を読み上げたり」とも記されている。」『筆まか勢』には以下のように、けなげな比較をしている。また『病床六尺』などにも表現されている。
- 東京
- 松山
- 宮城
- 松山城
- 内閣
- 県庁
- 警視庁
- 松山警察署
- 帝国大学
- 松山師範学校
- 隅田川
- 石手川
- 山王
- 道後八幡
- 大丸
- 米周
子規は東京と松山を比較することによって故郷についての優劣を言おうとしているのではない。ただひたすらにいま離れている松山を想い、そしてたまたま、宮城と松山城、内閣と県庁、というように比べてみることであった。東京に松山の町のあれこれを当てはめてみると大きい小さいなどの規模、豪華さなどはともかく、わが松山も捨てたものではないと客観視しているのである。子規の余裕というかゆとりとも感じる。また続けてこうも書いている。
「ある人がこの表を見れば、すべての点で松山が劣っていることを認めた上で、山王神社と道後八幡神社では道後八幡が勝っていること、また別の人は松山にあって東京にないものが二つあり、それは道後温泉と緋ノ蕪だ、といった。そこで大笑いとなり、松山会始まって以来の盛会であった」。
故郷を離れて東京の華々しい都会生活をしている時、発達心理学者エリク・H・エリクソンの「自我同一性(アイデンティティ)」としての自分、子規と松山の関係をなつかしむのである。故郷も、城、学校、川などが立派に残り、いつでも迎えてくれる。その暖かさが子規の松山論である。