2025年9月6日掲載

自民党内の権力争いか、国民世論(せろん)か

 前にも書いたのですが石破総理の辞任は必要ない、という見方は変わらない。まず自民党は党なのか、という疑問がある。自分たちで選んだ党の総裁が、一国の総理になったならばこれを支える必要がある。それが参議院選挙の敗北の責任をとって辞任せよと言う。敗因は多岐であろう。すべて責任は石破総裁にある、というのは安倍政権がもたらした金権問題をも石破総裁、総理に被せることになる。石破総裁、総理に辞任を求める集団は二つになる。一つは安倍政権で権力の甘い汁を吸った集団、もう一つは野心満々の若手である。ここで政界という異世界を考えなければならない。それは一口に言って、動物の世界にもある野蛮な弱肉強食である。

政治家に道義、正義の心はない。

 よく政治家は演説や自分のモットーに論語を引用したり、聖書の文言を使う。偉人の本からの引用は当たり前である。自らの持てない物を先人の言葉で補うわけだ。それは弁論の技術であって、誰もが使う。その先人のことばに、困っている人の足を引っ張って自分がそれに取って変わるべきだ、などというものはない。自分の都合でどうにでもなる程度の先人の遺訓である。したがって、きれいな言葉の演説と自分の現実の行動のギャップに悩むような良心的な政治家はいないだろう。演説は演説、行動は行動というわけだ。

 だが善良でうぶな国民は、政治家の本音、野心まで洞察できない。そこで裏切られて失望する。政治不信、政治家不信になる。これの繰り返しが、少なくとも日本の政治である。

石破総理総裁の去就は国民が決める。

 今回新聞社の調査などでは、自民党の安倍派の今回の自民党大敗問題を石破総裁、総理の失敗と出来るのかということ、それと国内外にある問題を離れて自民党の総裁すなわち日本の総理を選ぶために時間をとれるのかということもある。改めて一国の総理は国民が選ぶべきである、と言えばアメリカなどの大統領制になる。先には真面目に検討すべきであるが、当面は新聞各紙の世論調査の意向からして変則大統領制として受け止めて石破続投で納めるべきである。9月3日現在、石破総裁、総理はしかるべき時期が来たら辞任する、と伝えられるが当たり前のことで、自分の判断で決めるということである。その時期の言質は与えていない。

2025年9月3日 記